昭和51年10月05日 朝の御理解



 御理解 第3節
 「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」

 天地の間に氏子おっておかげを知らず。私は昨日から頂いとります寛大の寛という字ですね。う冠に草冠そして見るという字寛大の寛。おかげを知らずと言う事は、この事が分かっていないと言う事だと思うです。これはお道のどうでも根本になる所ですから、そこが分かってしかもその思い込みがいよいよ強ようなって来なければ、教えを行ずるというても頂くというても、総てがいわば根のないものの様になるです。ですからこれはもうどうでも理解の上でも分かると同時に体験の上でも。
 それを実証して行く所のおかげを頂かねばならない。「天地の間におって氏子おかげを知らず」ということは、天地の間に起きて来る、是は人間の事だけじゃないけれども、私共は人間の上に起きて来る、一切総ての事が神のお働きと見るということです。これが金光様の信心の根本になるということ。私はおかげを知らずということろをです、しだごだにしては他の教えまでが、本当の事になって来ないと思うです。ここんところが本当にそうだと分かって体験の上にもそれを。
 そうであると確信出来たところから、教えの総てが生々としてくる。「天地の間に氏子あっておかげを知らず」と。今日はそこのところを皆さん一つ分かってもらって、そしてそれがいよいよ思い込みが強うなってゆくために、次の信心の稽古させて貰い、いや分かるところをです言うならば、神仏の宮寺氏子の家屋敷神の地所と仰る事は、一切が神様の御物であるということなのです。
 次に「日柄方位ばかり見て無礼いたし」とあるが。御無礼無礼と言えばこんな御無礼はないということ、いわゆる見当違いも甚だしい考え方ですね。いわゆる知らぬ事とはいいながら見当違いの考え方。自分のものでもないものを自分の物のように思うたりね、この天地のお恵みが満ち溢れているこの天地の中にです、日柄があったり方位があったり、あっちがよいのこちらが悪いのと言った様な、見当違いの考え方が先ず天地に対する無礼になり、しかもそれが難儀の元になるとここで極言してあります。
 だから金光様の信心をするなら、そこのところをはっきり思い込みが出来なければいけんです。結婚式をするのに黄道吉日を選ぶとか。昨日もどなたでしたか、あっ椛目の内田さんでしたか、近所にお年寄りの方が亡くなられた。そこの向かい方ところが何というですか、友引きとか牛の日とか言った様な日ですよとにかく、だからそのう葬式が出来ないで一日を置かなければならないから、いろんなもう今日片づけて貰うと本んによかばってんと、近所の人達は言っているけれども、それが出来ないと言う訳です。
 こんなにこんなにばからしい話はないけれども、それが天地に対する無礼なのです。そげな事をして例えばなら霊の世界に入ったって、それだけでも御無礼になるですよね。何の日が良いの悪いのと、西が良いの東が良いのと言った様な、もう金光教の信心からいうと愚にもつかない事を、一つの理屈をつけてそういう言い方をすると言う事がです、天地に対する無礼になり、しかもそう言う事が積もり積もって先祖代々から言って来ておるから、それがお互い難儀の元に成って来ておると仰った。
 だから天地に対する所の思い違いとか頂き違いと言う事を、先ず金光教の信心をするならばスキットしなければいけないですね。同時にいわゆる寛大なおかげを頂く、本当に有り難い大きな豊かなおかげを頂く事の為にです、この寛という字う冠に草冠に見るという字を書いて、これを寛という一切の働きというものがです。だからそれが一切の働きですけれども、まぁ私自身の上においてもですね、私個人の上でも私個人の上に起きて来る問題は良い事悪い事ね、痛い事痒い事に至るまで。
 一切それを神様の働きと見るのです。それを御働きと見るのです。ですから痛い事であってもやはり合掌して受けなければならないし、損になる事であってもねやはりやれ痛や今みかげをと言う心の状態。今めぐりの取り払いを頂いておると言った様な心の状態。それはいろいろに受け方はありましょうけれども、それでも又は大難は小難でおかげを頂いてと、言う様にして受けていく受け方を教祖は教えておられます。一切が神様の私の上に起きて来る全ての事が、神様のお働きと見るというこの心がです。
 分っただけではなくてそれを思い込ませて頂くところからです。一切の信心修行が生々として来るし、また中味のある修行になって来るのです。最近ここで言われます「頂きます頂きましょう」と言うてね、頂いて行ったというても大した事はないです。そこで例えば辛抱とか堪えていこうということで、もう問題を問題とせんで行こうではいけない。根本のところが分っておる頂きます頂きましょうになるのですよ。そこになら困った問題が例えばありましてもです、それを神の御働きとみるところにです。
 心はいよいよ寛大になる訳です。心がいよいよ大きくなる訳です。だからおかげもまた大きくなって来る訳ですね。ですからこれが根本です。天地の間に住む人間がです、天地の働きをおかげを知らずとこう仰っておられますね。「天地の間におる氏子あっておかげを知らず」私は今日はここんところをしきりと、ははぁおかげを知らずということは漠然としていたけれども、そういう事も知らないと言う事、悪い事が起ったり困った事が起こったりする事をです、それを神のお働きとして受けていくという事です。
 それを信ずる事です。そこでいわば成り行きを大切にするとか尊ぶと言う事は、分かって来る訳ですけれども、所がなら私共生身の人間を持っており生身を持っておりますから、叩かれれば痛いしねいよいよ自分にまぁ困った事が起きて来たりすると、やはり残念とこう思う訳です。そこでなら神様に願いというのはそこからのお願いが出来て来る訳です。これはあなたが私に下さる所の修行です。あなたが是を神の働きと見る事が本当です。またそれを信じますけれども、現在の私の力ではこらが受けきりません。
 よろよろです、もう押し潰されそうです。ですからね分かってはおりますけれども、どうぞこれを少しいくつもに分けて下さって、難を軽るうして下さいと言った様な願いがそこに成り立つ訳です。先日から実意を持って牛馬の事に至るまで、身の上の事もう氏子身の上の事何なりとも実意をもって願えと仰るのはその事です。ここ二、三日どうも私くしは風邪気味でした。昨日当りはどうも水鼻が出るような感じでした。少ぅし頭がこうキリキリと痛むような感じでした。だからねならこれを受けるのが本当なんです。
 けどもね御に差し支えてはなりませんから。どうぞこれを軽ういうならば、もうこのまま風邪という病気が解消するような、おかげを頂かして下さいと願う訳です。その風邪を私が引かなければならない事を、それは神様が下さってあるのじゃからね、それで神様にお願いをする。神様もあれこれ考えて下さって、なるほど御用にも使わにゃならんし、それで頭が痛いとか尻が痛いとか、鼻水が出たら御用も頂きにくいだろうから、とまぁいわばお願いをするからおかげを下さる。
 今朝はおかげでスッキリして、どうも風邪の気が抜けたような感じがするのです。商売で例えば損をするというてもそうです。それをまともに受けるのが本当ですけれども、それをなら損なら損でもです、千円損するところは五百円、五百円損するところは二百円で損が済む様に、お繰り合わせを願う。こんどはそれと反対の事も言える訳です。儲かる様にも願うし売れる様にも願わなければならん。このへんのところがです、その次になってくる訳ですよね。
 いいですか。日柄方位と言った様なね、人間の浅い智恵やら考えから、学問やらで出来上った日柄方位と言った様なものをですに、左右されるということは天地に対して墨金つけるような事であり、御無礼であると分からせて頂いてです、そういう事を言わんで済むスキッとした心で、おかげを頂かねばそういう天地に対するところの、天地に対するケチを付ける様な生き方がです、前々のめぐり合せで難を受けておる、それが難儀の元になるのですから。
 ここんところを一つ金光様の信心するならば、早くスッキリと卒業しなければいけないという事です。「今般生神金光犬神を差し向け、願う氏子におかげを授け」と、だから願う氏子に例えばやれないものでも、願えば頂けれると言う事が分かります。それは皆さんがその辺のところは、金光様の御信心を頂いとる者の総てが知っておる事なのです。願えばおかげを頂くということは、いうならばならぬ事がなるようなおかげです。助からんところが助かるようなおかげです。これが願いの世界です。
 そういう例えばおかげを願い、おかげを頂いてなら理解申して聞かせと仰せられるのですからね、いわゆる日々の此処でおかげを頂いておる、御教えを頂いての信心生活が出来なければならん訳です。そこから分からせて頂く事がです、この神様は氏子ありての神神ありての氏子と言うておられるのであるから、この辺のところが金光様の信心のいわば独壇場になって来る訳ですね。この御理解三節はもう全部がこりゃ金光教で教祖でなからなければ説き得なかったところだと思うですね。
 特にこの神仏の宮寺とか、日柄方位とかいう人間の思い方、考え方また増長慢の考え方というものがです。前々の巡り合わせで難の元を形成しておると言われるのですからね、ここへんはあらゆる宗教が説き得ていないところです。「天地の間に氏子あっておかげを知らず」、というところを、金光教の信心によっておかげを知る訳です。それはどういうことかというと寛大の寛です。起きて来る一切の事、神様の自然の働き神の働きと見るというのです。神様の働きだから不平不足が言えない訳です。
 けれども力不足でそれをよう受けきらん時には次に願って行けとこう。売れんより売れたが良いなら、売れるように願わにゃいけん。病気でも早く全快のおかげを頂きたいならば、それを黙って自然に受けると言う事も素晴らしい事じゃけれども、受けられんからそこを願う訳です。だから十日間の苦しみをせなければならぬ所を、五日間のお操り合わせおかげを頂くと言う事になる訳ですね。そこんところもまた実意をもって願えば、おかげが頂けると言う事が分ります。
 そしてなら御理解を頂いて、いよいよ分からせて頂く事は、此処が一番大事なところ、ただ私共がそういうおかげを頂いて、人間の幸せを謳歌するというだけではなくて、私の助かりが果たして、神様の立ち行きなさる、神様の働きに通じ繋がっておるかということを、金光教の信者は思わなければならないのが、ここですね。氏子ありての神神あっての氏子、上下立つように至すというのが、天地金乃神様のいわゆる神願であります。神の願いなのです。
 普通の例えば宗教は、病気を治して貰うて有り難いとか、お操り合わせを頂いて有り難いとかいうだけでしょう。その有り難いというおかげが、神様も喜んで下さる程しのおかげに繋がっておるとか、いないとかということは思いも考えもせんで良い訳です。けれども金光様の信心は、ここでは何時も言う様に常持、喜びを常に持ち続けて常持(善導寺―合楽間のバス停の名)の向こうにあるところの合楽を目指せというのです。私が楽する事は神様も楽して下さる。
 そこから初めて合楽のおかげというものが頂けて、そこから本当ないよいよな幸せが生みなされて来る訳です。そこに初めて上下立つ様に致すと言う神様の願いが、成就する事になります。その過程においてですなら一切を神の御働きと見るという、生き方の中にもここでもそのうここでは申しとりますですね、あのう成り行きを大切にするという事と同時に、成り行きを願い成り行きを大切にしていく。だから私で受けられる様な働きを願うと言う事ですねそこは。
 ここに一万円の損をせなければならない様な事が起って、事になっておってもです。五千円でそれが済む様なおかげを願う、お繰り合わせを願う。一万円今家が損をしたらもうそれこそ家が潰れる、そこで神様五千円の損にして下さいという、願いも出来ると言う訳です。そこのにきの私はあのう金光様の信心の、まぁいうなら有り難いところがあると思うです。実意をもって願えばそれは本当に牛馬の事に至るまで願え、五穀豊穰人事百般何なりとも願うていけれる。
 そういう願うていけれる信心だけ分かったら、これは他のなら何々様の信心でも同じ事になりますけども。そういう願いをさせて頂けるけれども、根本としては天地の間に氏子おっておかげを知らずという、そのおかげをまず知ってからが、それが根本になるのだということです。寛大の寛です。そこのところが分かりますから、ちっとは無理でも頂きましょうやと、頂きますということにもなって来る訳です。そこに例えば力みが出来る。そこに力みが出来るところに力が得られる事になるのです。
 だから楽な事ばっかりを求めてはいけません。それでは力がつかん。一応は此処に起きて来る例えば一つの問題であっても、それを有り難く頂きます成り行きとして御の字をつけて、御事柄として頂きますと言う様な生き方をさして頂いて、それでいてならば御用に差し支えない様に、又は万事に差し支えがない様に、それをならまた難を軽くして頂くと言った様な願いも、それは牛馬の事に至るまで願えという事になるのです。
 昨日神愛会で先生方いろいろ話をさせて頂いて、最後の時分でしたけれど、今度青年会で青年会の大会を12月に持たれる様に。昨日の昼なんか企画の方達が集まってまぁしたらしいです。それでそのう会の一つのテーマになるような事を頂きたいと言う。私はどうもそのう思いますのに、少しその何と言うですかね、青年なら青年らしいそれこそ若々しい、しかも現代の人としての何かセンスが溢れる様な会でありたいと思うし、又そのテーマもそうであっていいとこう思うです。
 だから言うならばこれからテレビなど見とっても新聞見とっても、私共の様な無学な者は、もう横文字とか英語で言われたら分からない事が沢山あるのです。ところが今の若い人達なんかでなら、そのあの横文字で英語で分からない人は一人もいませんですね。中学からもう勉強しますから、だからねその横文字で書く書くようなタイトルはないかと言うと訳です。そしたらちょうど宮崎先生が見えて来ておられたからね、もう合楽の信心を英語で言ったらどういうことになるかと言うと。なんちゅ「3H」でしたかね。
 3Hじゃないそれが私が分からんとこたい。3エースですかね「3S」それはねシャープという事、スマイルという事と、スマートだというんです合楽の信心は。シャープと言うのはどういう意味ですか、おかげはやっぱりシャープだと言う事ですか。スマイルだと言う事はにこやかだと言う事。スマートだと言う事はにこやかだと言う事。スマートだと言う事は垢抜けしている。とにかくもう合楽でお取次を頂くともうそれこそ、何んと言うですかもうスパッと、もうぐずぐず迷わないで済む様なお取次が頂けるという事。
 実にそのうスマイルと言う事何と言いますかね、スマイル言う事は「和賀心」に当たるそうですね。そしていわゆるスマートである言わゆ自然だと言う訳なのです。そういうシャープとかスマイルとかスマートね、これを例えば目指してとか頂いてとか、もうこれを横文字で書いたらどう言う風に言われたか、それを今度の青年会のテーマにしたらどうですかとこれを英語で書いて、そういう私はしたらどうかと申しました事でしたけれども。シャープでスマイルでしかもスマートだと。
 確かに私は合楽でおかげを頂いておる、あの皆さんの場合はやはりそういうおかげを受けておられると言う事です。それはどう言う所からかと言うとね。私が断食をしたり水行をしてね、信者が助かる事の為にそれこそ寝ない修行をしてしたりしてから、その神様にお願いをして、いわゆる無理をした様なおかげはないと言う事です。ここで表行全廃とはそう言う事です。ただそれこそ露ほどの事でってもです、神様の御教えここは絶対天地に通うと言う様な行き方をです私が頂いて。
 只そこの所に焦点を置いての信心をさせて頂いておるから、神様が露ほども間違わないおかげを、シャープに又はスマートにスマイルに、おかげを見せて現わして下さる事になるのです。だからこの信心を頂いて行く限り、なら今まで金光教の一つの悩みと言うか、疑問と言うかね。どうして先代の時はあぁいう人が助かったのに、二代になったらねストっとおかげが落ちてしまうのか、そしてみると先代の信心は素晴らしかったけれども、それだけではいけないと言う事になるじゃないかと。
 というのでなら合楽ではねユニークな生き方として、皆んなも認めて段々下さる様になり、私自身も今まで先生方が言われておった、例えば御霊感であっても神親も又は、今まで言われて来ておった表行と言った様な事でも。ただ御神意に添い奉る、天地日月の心なる事肝要なりと、言った様な所だけに焦点を置いておかげを頂いておる、そこにおかげが実にスマートなね。自然な、スマイルな、シャープな、おかげになって来る訳です。だからそのおかげからみてもです。
 親先生が本当に一晩中御祈念して下さったから助かったとか、先生が人が出来ない様なあぁいう荒行して下さったから信者も助かっている。無理に神様からもぎ取る様なおかげではなくてね、スマートな自然なおかげが流れて行く様に、頂けておると言う事から見てもですね。いわば合楽の信心のなら根本になるところがね、寛大だからと言う事なんです。寛大ということは神様の一切の事をです、神様の御働きとして見る。だからそれを成り行きを神様の御働きとして受けて行く。
 全ての事嫌な事であってもそれに御の字をつけて頂いて行くという生き方が、生き生きとして来る訳であります。おかげが生々としていうならばスマートなおかげになって来る事の為にも、今日私が皆さんに聞いて頂いた御理解三節を新たな今日は角度からですね、特に「天地の間に住む人間、間に氏子おっておかげを知らず」といわれるところを。今日は強調して聞いて頂いたんです。皆んながそのおかげを知らない。
 おかげを知らないから問題が起こったり困った事になって来ると。信心しておってどうしてこういう事がということになって来るのです。 おかげと知るという事。それは神様の私の前に現れて来る事柄その全てが、神様の御働きと見るという頂き方を、いよいよ信念さして頂いて、体験の上でも確かにそうだと確信させて貰うて、それがぎりぎり根本になっての、次の信心でなからなければならないと、いう事を今日は聞いて頂いたですね。
   どうぞ。